荒野のダイヤモンド
素材のイノベーション フレイには、長年、工業施設用建材を扱った設計の経験があった。初期のプロジェクトでは木造の骨組みを露出させていたこともあるが、砂漠気候には適さないと理解していた。 フレイは、それぞれの素材の良さをありのままに見せる手法を取っている。基礎は打ち放しのコンクリート塊で、その上に段状のコンクリートスラブが載り、コンクリートスラブから鉄骨フレームが伸びている。鉄骨の躯体を覆うのは、トタン板の屋根。屋根には仕上げをせず、経年によるさびと風合いにより、周囲の岩場と同化することを狙っている。 どちらかというと実用性重視の建物に使われるイメージのトタン板だが、フレイはこの素材を、美しいディテールにこだわった自邸にも絶妙に取り入れている。屋根の内側には、一般的なバットタイプの断熱材を敷いている。断熱材を覆うのは、穴あきアルミニウム板に塗装を施した天井で、この天井には室内の音響をソフトにする効果もある
家の上方にあるハイキングトレイルから撮影した写真。屋根のラインが傾斜する地形と調和していることがわかる。 フレイの建てた夢のマイホーム フレイは、長年にわたり砂漠地帯の建物を手掛けるなかで、新しい素材や砂漠の気候条件について実験を重ね、技術を磨いていった。そしてついに1964年、彼の最高傑作となる建築に着手する。フレイがその後の生涯を過ごすことになる、小さな家だ。 敷地に合わせたデザイン。フレイは、サン・ジャシント山のふもとに位置する急斜面の岩場という、ほとんど建設不可能とも思えるような区画をあえて選び、自分の腕試しをした。「家といえばこういうもの」という既成概念にとらわれず、何ヵ月もかけて敷地を綿密に調査し、太陽の動きや、岩場の露出ぐあい、遠景の見え方などを研究した。屋根のラインを確認するため、支柱とロープを使った実物大の模型も現地に制作している。最終的に、いくつか厳選したデザイン要素にフォーカスした設計を完成させた。その中には、巨大な花崗岩の石塊をそのまま室内に取り込むというアイデアも含まれている。 屋根は細いスチールの梁で支えられており、コンクリートのテラスの上方に浮かんでいるかのようだ。屋根の傾斜角度は、周囲の土地の傾斜とぴったりあわせて、周囲の環境に調和させている。
自邸にたたずむアルバート・フレイ。Photo by Don Buckner 西に向かったモダニスト アルバート・フレイにとって南カリフォルニアの砂漠へと移住は、キャリアの大きな転換点だった。フレイは1903年スイスに生まれ、1931年、『アーキテクチュラル・レコード』誌の当時編集長であったA・ローレンス・コッカーとの共同設計によるニューヨークの《アルミネア・ハウス》で一躍有名になった。すべて金属でつくられたこの家は、そのころ急増しつつあったアメリカ中産階級のためのローコスト住宅の提供を目的として設計された。革新的ではあるが、ル・コルビュジエ初期の箱型の家との類似点も多く、とくにフレイも設計に携わった《サヴォア邸》との共通点が強く感じられる。 1930年代の初め、パームスプリングスで小規模な商業ビル設計の仕事を得たことがきっかけで、若きフレイは西へと向かう。建築家ジョン・ポーター・クラークとパートナーを組んで設計したこのオフィスビルは、パームスプリングス初のモダンなビルとなった。そして第2次世界大戦後、パームスプリングスは冬の寒さを逃れてやって来るハリウッドスターや東海岸の富裕層たちに人気のスポットとなり、建設ブームが始まった。 パームスプリングスに移り住むエリート層の住民たちは新しいアイデアに対しても積極的で、砂漠環境を熟知したモダニスト建築家であるフレイは、彼らの住まいを手掛ける人物としてまさに適任だった。またフレイは、ドナルド・ウェクスラー、ジョン・ロートナー、リチャード・ノイトラなど、砂漠地帯での建築に取り組んでいた一連のモダニスト建築家たちとも親しく、互いに競って最先端のモダンデザインを推し進めていった。
Photo from David Glomb ダイニングテーブルは、フレイの製図テーブルも兼ねていた。独立した空間は、西側にあるキッチンとバスルームのみ。 《フレイ邸 2》を見学するには、パームスプリングス美術館にお問い合わせ(英語)を。
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